学校教育目標
確かな学力の向上、  豊かな心と健やかな体の育成 
かしこく ただしく たくましく
 

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本校の卒業生、森村誠一氏のエッセイより

 森村 誠一氏は、日本の小説家、作家です。推理小説、時代小説、ノンフィクションなどを手がけています。埼玉県熊谷市出身。

 森村氏は熊谷東小学校の卒業生です。森村氏のエッセイの中には東校(東小学校)がたびたび登場します。その内容から当時の様子だけでなく、東小学校のよき伝統やよき教育活動をうかがい知ることができます。これらは現在の熊谷東小学校にも通じる何かを感じることができるエッセイです。

 このたびご本人の承諾をいただきwebに掲載することできました。

私の赤い屋根
森 村 誠 一
 先日久しぶりに帰郷し,母校の東校を訪れてみた。私が卒業したのは終戦の年の昭和二十年三月であった。終戦前夜の八月十四日,熊谷市は空襲をうけて市の大半が焼土と化したが,わが母校の東校は健在であった。東校の象徴である赤い屋根と三十数年ぶりに再会して,感慨無量であった。当時の東校は麦畑の真ん中にあり,現在の藤間病院のあたりから家並みが切れて,我々はひたすら赤い屋根を目ざして,畑の中の一本道を急いだものである。女子高校から青雲堂の脇道を突っきると近道であったが,学童は通行を禁止されていた。その“禁断の道”も今はない。校門のすぐ脇にあった二宮尊徳像は,当時はなかった平屋の新校舎裏の西南の隅に移され,校庭が狭くなったように感じられた。
 赤い屋根もすでに裏校舎は取り壊され,わずかに表校舎のみ生き残っていた。当時はモダンであった校舎も,今は老いて,近く取り壊されるという。老朽した校舎は危険であるし,徒にセンチメンタリズムによって,教育施設や環境の充実を妨げてはなるまい。
 だが,古びた木造の校舎にはそこで学んだ無数の生徒のおもいでや涙や汗や足跡が深く沁み,刻みつけられているように感じる。小学校は,中,高校,大学と異なり,幼い日の母の膝元からの延長のような甘い郷愁がある。学友はみな「竹馬の友」であり,通学仲間は同じ町内の「筒井筒」(幼いころの女友達)である。
 すでにそのような言葉が死語になりつつあるように「赤い屋根」も取り壊される運命にある。
 赤い屋根と共に我々の幼い日の夢を育んだ母校の校舎はなくなる。だが,校舎は建て替えられても,母校は永遠である。
 母校への思いを改にして立ち去りかけたとき,朝礼台の後あたりに古いコンクリートブロックの塊のようなものを見つけた。私は思わず声をあげた。それは私たちが“水飲み場”と呼んでいた水道台であった。体操の時限が終わった後など,「おれ一番,あたし二番」と先を争って渇いた口をつけた水飲み場が三十数年の星霜を経た今日も残っている。あのころ水飲み順位を争った友は,いまどこでどうしているだろうか。
 私は五十余年を一瞬の間に遡り,吹き付けるような懐かしさの中に立ちすくんだ。


注  氏が小学生時代を過ごした校舎は,昭和五十二年から五十四年にかけて取り壊され,現在の校舎に建て替えられた。従って,この間に来校しての作品と考えられる。


幼い日の遠足
森村誠一
 私の通った小学校は、埼玉県熊谷市の東校である。今は東小学校、当時は東国民学校といったと思う。遠足はいつも秩父線沿線で、一年生は大麻生のハゲタン山、二年が永田の六堰、三年が波久礼の五百羅漢、四年が長瀞、五年が浦山口の観音様、そして六年が終着三峰口から三峰山へ行く。一年ごとに秩父線の乗車時間が長くなるのが嬉しく、さらに先へ行く上級生が羨ましかった。出発は熊谷駅から同じ電車で出かける。先ず大麻生で一年生が降りる。永田で二年、波久礼で三年という順序に次々に降りて行くが、との度に、ワーワーキャーキャー手を振り合って大変な騒ぎである。六年間かかって、ようやく終点まで行き着けるのであるから、当時の卒業生は、秩父線に対して特別な思い出を持っているにちがいない。自分たちが下車するとき、自分たちより先に行く上級生が、ひどく偉く見え、また先に降りて行く下級生に優越感を覚え、この遠足によって一年から六年までの序列が再確認されるのである。

 現在東校がどのような形で遠足を行っているか知らないが、今でも私はこの遠足プランが抜群のものだと思う。八方の方角に別々の乗り物でばらばらに出かけるよりも、全校生徒が同一方向に向かって同時に出発し、上級生ほど遠方へ行くという遠足は、下級生をして上級生だけが行ける遠方に憧憬を掻き立てさせ、来年の遠足に新たな夢を寄せさせるのである。
しかも、この遠足によって目上の者に対する尊敬や目上の者に向けるいたわりがごく自然に養われる。太平洋戦争の戦火がはげしくなり、当時陸軍飛行場のあった熊谷上空にB29が姿を現すようになったが、東校の遠足は続けられた。客車は軍用に取られて、我々は無蓋の貨車に乗せらたが、それが我々の楽しさをかえって倍加した。秩父線沿線は厳しい戦局にもかかわらず、まったく戦火を受けず美しく平和だった。初夏の光を浴びながら、上級生と下級生が握手して別れた波久礼や長瀞の駅がいまだに瞼に残っている。近所の遊び仲間か、きょうだいが手を振り合って、それぞれの目的地に向かって別れて行く。
 さらに嬉しいことは、これらの何パーティかが帰りの電車で再会することである。低学年生は早目に帰るが、高学年になると一日目いっぱい使うので、帰りの電車に乗り合わせることがある。そんなときは、車内で食べ残したお菓子や果物の交換会が行われる。今の豊かな時代に比べれば、粗末な食べ物であったが、これが限りなく楽しかった。

 自動車道路の発達によって、今の遠足はほとんどバスになってしまったようだが、私は自分の経験からして、電車や汽車に乗らないと遠足という気がしない。
 秩父線沿線には花が多かった。遠足は主として五月に行われたが、山の方へ行くと遅咲きの桜が咲いている。無蓋車に乗って行くと桜の花びらが、電車の風圧に乗って花吹雪となり私たちの上に降りかかった。その度に私たちは喚声を上げた。

 家に帰って来て、母に遠足の土産話を聞かせていると、私の背負っていたリュックの後始末をしていた母が、小さな嘆声をあげた。リュックの中から山桜の花びらの数片がこぼれ落ちたのである。降りかかった花びらがいつの間にかまぎれ込んでいたのだ。
         (ロマンの切子細工・角川文庫1978より)